20世紀を代表する女優が歩んだ、知られざる軌跡
はじめに
オードリー・ヘップバーンといえば、「ティファニーで朝食を」の黒いドレス姿を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
しかし、彼女の人生は「美しい映画スター」という言葉だけでは語りきれません。
第二次世界大戦下のオランダで飢餓を経験した少女が、やがてハリウッドの頂点に立ち、晩年は世界中の子どもたちのために命を捧げた——。その生涯には、私たちが学ぶべきことがたくさん詰まっています。
今回は、彼女の人生を時代背景とともに丁寧にたどってまいります。
第1章:貴族の家に生まれて(1929〜1939年)
国際的な環境で育った幼少期
オードリー・ヘップバーンは1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで誕生しました。
父親はイギリスの銀行家、母親はオランダの由緒ある貴族の出身で「男爵夫人」の称号を持つ女性でした。つまりオードリーは、ヨーロッパの上流階級に生まれたお嬢様だったのです。
父親の仕事の関係で、幼いオードリーはベルギー、イギリス、オランダの3カ国を頻繁に行き来する生活を送りました。この環境が、後に英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を流暢に話す語学力の基礎となりました。
6歳で経験した家庭の崩壊
しかし1935年、オードリーが6歳のとき、両親が離婚。父親は家族のもとを去っていきました。
この出来事について、オードリーは後年「人生で最大のトラウマだった」と語っています。父親に捨てられたという深い傷は、生涯にわたって彼女の心に残り続けました。そしてこの経験こそが、大人になってからの彼女が「家庭の温かさ」を何よりも大切にした理由でもあるのです。
第2章:戦火のなかで——ナチス占領下の青春(1940〜1945年)
中立国の幻想が崩れた日
1939年、第二次世界大戦が勃発すると、母親はオードリーを連れてオランダへ移住しました。「オランダは第一次大戦と同様に中立を保てるだろう」という期待からの決断でした。
しかしその判断は、結果的に誤りでした。
1940年5月、ナチス・ドイツ軍がオランダに侵攻。以後5年間にわたる過酷な占領生活が始まります。当時11歳だったオードリーにとって、「オードリー」という英国風の名前は危険なものでした。母親は娘を守るため、一時的に「エッダ」という名前を使わせたといいます。
10代の少女が担ったレジスタンス活動
驚くべきことに、10代のオードリーはオランダのレジスタンス運動に参加していました。
彼女が関わったのは「黒い夜」と呼ばれる秘密の公演活動です。窓を黒く塗りつぶした民家や地下室で、追放されたアーティストたちがひそかに演奏会やダンス公演を行い、ユダヤ人を匿うための資金を集めていました。バレエを学んでいたオードリーは、その踊りで資金集めに貢献したのです。
ドイツ軍に見つからないよう、観客は拍手の代わりに静かに手を振って演者を称えました。これを「沈黙の拍手」と呼びます。
また、オードリーは靴の中に秘密のメッセージを隠して運ぶ伝令係も務めました。ある時、ドイツ兵に検問を受けた際には、無邪気な少女を装い、摘んだ花を兵士に渡して難を逃れたという逸話も残っています。
「飢餓の冬」——身体に刻まれた戦争の傷跡
1944年から1945年にかけての冬、オランダは「飢餓の冬」と呼ばれる最悪の食糧危機に見舞われました。ナチスによる封鎖で食糧が途絶え、人々は飢えに苦しみました。
成長期にあったオードリーも例外ではありません。家族は生き延びるために、チューリップの球根を掘り起こして粉にし、パンのようにして食べたといいます。この時期の深刻な栄養失調は、彼女の身体に取り返しのつかない影響を残しました。
急性の貧血、浮腫、黄疸——。そして代謝機能の変化により、彼女は生涯を通じて太ることができない体質になりました。後に「オードリー・スタイル」として称賛されることになるあの華奢なシルエットは、実はファッションの選択ではなく、戦争が彼女の身体に刻んだ傷跡だったのです。
解放、そしてユニセフとの最初の出会い
1945年5月、ドイツ軍が降伏し、オランダは解放されました。奇しくもそれは、オードリーの16歳の誕生日と重なっていました。
解放直後、国連の救済機関(後のユニセフの前身)が飢えた人々に食糧や医薬品を届けました。オードリー自身も、この支援によって命をつなぎました。
「私はユニセフが子どもたちにとって何を意味するか証言できます。なぜなら、戦後に食糧援助を受けたのは私自身だったからです」
後に彼女がそう語ったように、この原体験が、40年後のユニセフ親善大使としての活動の原点となるのです。
第3章:バレエダンサーの夢、そしてその挫折(1945〜1951年)
プリマ・バレリーナを目指して
戦後、オードリーと母親はロンドンへ移住しました。彼女の夢は映画スターではなく、プリマ・バレリーナになることでした。
名門マリー・ランバート・バレエ学校に入学し、奨学金を得て厳しいレッスンに励みました。しかし、その夢は残酷な形で絶たれることになります。
学校の主宰者は、オードリーにこう告げました。
「あなたには素晴らしい才能がある。しかし身長が高すぎる。そして戦時中の栄養失調で筋肉の発達が妨げられ、プロのトップダンサーになる体力が望めない」
戦争は彼女の命こそ奪いませんでしたが、最初の夢を奪い去ったのです。
舞台女優への転身
しかしオードリーは立ち止まりませんでした。バレエで培った身体表現力を活かし、ミュージカルのコーラスや映画の端役として働き始めます。
そして運命の出会いが訪れます。フランスの文豪コレットが、モナコのホテルで偶然オードリーを見かけ、叫んだのです。
「あの子よ! 私のジジがいるわ!」
コレットの小説「ジジ」のブロードウェイ舞台化が進んでおり、主役が見つからず難航していました。コレットの強い推薦により、演技経験のほとんどないオードリーがブロードウェイの主役に抜擢されたのです。1951年に開幕した舞台「ジジ」は大成功を収め、ハリウッドへの道が開かれました。
第4章:「ローマの休日」——スターダムへの階段(1953年)
運命のスクリーンテスト
ウィリアム・ワイラー監督の映画「ローマの休日」のアン王女役には、当初エリザベス・テイラーなど大物女優の名前が挙がっていました。しかし監督は「王女役には本物の気品が必要だ」として、ヨーロッパで新人を探していました。
ロンドンで行われたオードリーのスクリーンテストで、興味深いことが起きます。「カット」の声がかかった後もカメラは回り続けており、緊張から解放されたオードリーが見せた自然な笑顔が記録されていたのです。この無邪気な魅力が決め手となり、彼女はアン王女役を射止めました。
グレゴリー・ペックの予言
撮影中、共演した大スターのグレゴリー・ペックは、オードリーの才能に驚嘆しました。彼はプロデューサーに電話をかけ、こう進言したといいます。
「彼女の名前を私と同じ大きさでポスターに載せなさい。そうしないと後で恥をかくことになる。彼女はこの映画でオスカーを獲る」
当時の映画界で、新人の名前が主役と同列に扱われることは異例中の異例でした。しかしペックの予言は的中します。1954年、オードリーはアカデミー主演女優賞を受賞。デビュー作にして世界の頂点に立ったのです。
第5章:ジバンシィとの運命的な出会い——ファッション革命
「サブリナ」から始まったパートナーシップ
1954年の映画「麗しのサブリナ」は、オードリーとデザイナー、ユベール・ド・ジバンシィとの歴史的な出会いの場となりました。
オードリーは「パリから帰国するヒロインには、本物のパリの服が必要だ」と主張し、ジバンシィのアトリエを訪問。当初、ジバンシィは「ヘップバーン」と聞いて大女優キャサリン・ヘップバーンを想像していたため、華奢な若い女性の登場に驚いたといいます。しかしオードリーが服を試着すると、まるで彼女のために作られたかのように完璧に似合いました。
こうして始まった二人のパートナーシップは、40年にわたって続くことになります。
新しい美の基準を作った女性
当時のハリウッドでは、マリリン・モンローに代表される豊満なボディラインが美の主流でした。しかしオードリーとジバンシィが作り上げたスタイルは、それとは正反対のものでした。
スリムで直線的なシルエット、バレエシューズ、カプリパンツ——。動きやすく、知的で、モダン。それは女性の新しい生き方を象徴するスタイルでもありました。
「ティファニーで朝食を」で着用した黒いドレス姿は、ファッション史上最も象徴的なイメージのひとつとして、今も世界中で愛され続けています。
第6章:黄金期——演技者としての成熟
幅広い役柄への挑戦
1950年代後半から60年代にかけて、オードリーはコメディからシリアスなドラマまで、幅広い役柄に挑みました。
「尼僧物語」(1959年)では、宗教的戒律と人道的使命の間で葛藤する修道女を演じ、演技派としての評価を確立。「ティファニーで朝食を」(1961年)では、孤独を抱えながら自由を求める女性ホリー・ゴライトリーを魅力的に演じました。
「暗くなるまで待って」(1967年)では、盲目の女性が犯罪者と対峙するスリラーに挑戦。鬼気迫る演技で5度目のアカデミー賞ノミネートを受けました。
エンターテインメント界の四冠達成
オードリーは生前および死後の受賞を含め、エミー賞、グラミー賞、オスカー(アカデミー賞)、トニー賞のすべてを獲得しました。これは「EGOT」と呼ばれ、達成した人物はごくわずかです。映画だけでなく、舞台、テレビ、音声表現のあらゆる分野で卓越した才能を発揮した証といえるでしょう。
第7章:私生活——家庭への渇望
二度の結婚と流産の苦しみ
華やかなスポットライトの裏で、オードリーの私生活は「普通の家庭」を築くための苦闘の連続でした。幼少期に父親に去られた経験から、彼女は温かい家庭を何よりも求めていたのです。
最初の夫は12歳年上の俳優メル・ファーラー。1954年に結婚しましたが、この期間に複数回の流産を経験し、精神的にも肉体的にも深く傷つきました。1960年に待望の長男ショーンが誕生しましたが、夫の支配的な態度などが原因となり、1968年に離婚しています。
二度目の結婚相手はイタリアの精神科医アンドレア・ドッティ。1970年には次男ルカが生まれましたが、夫の浮気問題などにより、この結婚も破綻しました。
スイスでの穏やかな暮らし
1960年代半ばから、オードリーはスイスの小さな村トロシュナにある邸宅「ラ・ペジーブル(平和な場所)」に定住しました。
ここでの彼女は、映画スターではなく、ひとりの母親として生きました。庭で花や野菜を育て、息子たちが学校から帰ってくるとクッキーを焼いて待っていました。愛犬たちと過ごす穏やかな時間を、何よりも大切にしたのです。
晩年のパートナーであるロバート・ウォルダースとの関係は、彼女が長年求めていた精神的な安らぎをもたらしたといわれています。
第8章:ユニセフ親善大使——第二の人生(1988〜1993年)
魂の原点への帰還
1988年、子育てが一段落したオードリーは、ユニセフ(国連児童基金)の親善大使に就任しました。これは名誉職としての「名前貸し」ではありませんでした。
「私はユニセフに借りを返したいのです」
戦時中にユニセフの前身から救われた記憶が、彼女を突き動かしていたのです。
現場に足を運び続けた5年間
オードリーは世界各地の危機的状況にある地域へ自ら足を運びました。
1988年、エチオピア。大規模な干ばつと内戦により数百万人が飢餓に瀕していた地で、彼女は孤児院を訪れ、500人の飢えた子どもたちを目の当たりにしました。「地獄を見た」と彼女は語っています。
1989年、バングラデシュ。同行したカメラマンによれば、ハエがたかる子どもたちを前に誰もが躊躇するなか、オードリーだけが迷わず子どもたちを抱きしめたといいます。
1992年、ソマリア。無政府状態の内戦下にあるこの国は、彼女の最後のミッションとなりました。彼女はその惨状を「黙示録的」と表現しています。
政治への明確なメッセージ
オードリーの活動の特筆すべき点は、感情的な訴えにとどまらず、明確な政治的メッセージを発信したことです。米国議会での証言で彼女はこう述べました。
「子どもの命に政治は関係ありません。私たちは人道主義を政治化するのをやめ、政治を人間化しなければなりません」
子どもたちが飢えるのは自然災害だけが原因ではなく、大人が起こした戦争や政治的無策が原因である——。彼女は国際社会に対し、毅然とした態度で行動を求めました。
第9章:最期の日々、そして永遠の遺産
最後の願い
1992年9月、ソマリアから帰国した直後、オードリーは激しい腹痛に襲われました。検査の結果、末期の癌であることが判明。余命わずかと宣告された彼女の唯一の願いは、スイスの自宅で最後のクリスマスを過ごすことでした。
衰弱した身体は通常の航空機に耐えられない状態でしたが、長年の盟友ジバンシィとパートナーのウォルダースがプライベートジェットを手配。機内を彼女が愛した花で埋め尽くし、慎重に飛行して彼女をスイスへ送り届けました。
最後のクリスマス、最後の贈り物
スイスの自宅に到着したオードリーは、家族と静かなクリスマスを過ごしました。体力が尽きかけるなか、彼女はジバンシィ、ウォルダース、息子たちにそれぞれ一着のダウンジャケットを贈りました。
「これを着るとき、私のことを思い出してね」
自分がいなくなった後も、愛する人々が温かく過ごせるように——。それは彼女らしい最後の心遣いでした。
1993年1月20日、オードリー・ヘップバーンは家族に見守られながら、63年の生涯を閉じました。
おわりに:循環する愛の物語
オードリー・ヘップバーンの人生を振り返るとき、そこに見えてくるのは「愛の循環」という深いテーマです。
戦争という極限の状況下で、彼女はユニセフの前身から差し伸べられた支援によって命をつなぎました。その救われた命で、映画という芸術を通じて世界中の人々に夢と美を届けました。そして人生の最終章で、かつての自分と同じように飢えと恐怖に震える子どもたちへ、そのすべてを還元したのです。
彼女の遺産は、映画史に残る傑作やファッション・アイコンとしての影響力だけではありません。自らの苦難の経験を他者への共感に昇華させ、影響力をどのように社会のために使うべきかという模範を示したこと——それこそが、オードリー・ヘップバーンが私たちに残した最も大きな贈り物なのではないでしょうか。